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平成25年度「第1回 湯浅年子賞」授賞式

2016年3月28日更新

平成25(2013) 年度「第1回 湯浅年子賞」授賞式

湯浅年子賞設立趣旨はこちらから

1978年頃の湯浅博士の写真
昭和53(1978)年頃の湯浅博士
資料提供:本学ジェンダー研究センター)

日時

平成26(2014)年3月26日(水曜日)15時から

場所

人間文化創成科学研究科棟・全学共用研究棟6階大会議室

プログラム

  1. 賞状授与
  2. 挨拶
    羽入 佐和子 (お茶の水女子大学長)
    幅 淳二(Director, Toshiko Yuasa Lab.)
  3. 選考結果報告
  4. 受賞セレモニー
    受賞者講演

1. 賞状授与

司会(菅本 晶夫):今回の受賞者は2名おられます。
一方は、山崎美和恵先生。残念ながら平成25(2013)年12月16日にお亡くなりになりましたので、ご親族の山崎俊嗣様に代理で来ていただいております。東京大学大気海洋研究所の教授でいらっしゃいます。
それから市川温子様。京都大学大学院の准教授でいらっしゃいます。
ではまず、学長から賞状の授与を行います。

【山崎 美和恵 氏】
表彰状
山崎 美和恵 殿
お茶の水女子大学賞
業績「湯浅年子博士に関する研究と著作活動」
あなたの表記の自然科学の諸分野における業績は著しく顕著であり、国内あるいは国外において既に高い評価を確立していると認め、ここに、第1回湯浅年子賞金賞を送ります。

平成26(2014)年3月26日
お茶の水女子大学長 羽入佐和子

Denis Perret-Gallix 氏(Toshiko Yuasa Laboratory)より、副賞(メダル)授与

【市川 温子 氏】
表彰状
市川 温子 殿
お茶の水女子大学賞
業績「ニュートリノ振動実験への寄与」
あなたの表記の自然科学の諸分野における業績は著しく顕著であり、国内あるいは国外において既に高い評価を確立していると認め、ここに第1回湯浅年子賞金賞を送ります。

平成26(2014)年3月26日
お茶の水女子大学長 羽入佐和子

Denis Perret-Gallix 氏(Toshiko Yuasa Laboratory)より、副賞(メダル)授与
山崎 美和恵 著『湯浅年子の肖像』贈呈

2. 挨拶

司会:ありがとうございました。
では、本学学長の羽入佐和子よりご挨拶申し上げます。

学長挨拶 羽入 佐和子(お茶の水女子大学長)

まずは、初めてのお茶の水女子大学賞の授賞式を行うことができましたこと、皆様のご協力に深く感謝申し上げます。
そして何よりこの賞の設立にあたりまして、高エネルギー加速器研究機構がフランスと共同事業を起こしています、Toshiko Yuasa Laboratoryに全面的にご協力いただきました。誠に有難うございます。
受賞なされましたお二方のうち、山崎美和恵先生がここにいらしていただけなかったことをとても残念に、またもっと早くこの式ができたらと申し訳なく思っております。本日は、ご親族の山崎俊嗣様においでいただきました。
そして、市川先生には、この賞のきわめてふさわしい研究者として、本日おいでいただきました。
また、この場には、湯浅年子賞の授賞にあたりまして、審査をしてくださいました先生方が多くいらしてくださっています。厳正な審査をしていただきましたことを改めて御礼申し上げます。
お茶の水女子大学賞と申しますのは、平成25(2013) 年度初めて設けました賞でございます。その意図は、女性に学術の分野だけではなく、国際貢献やあるいは社会貢献が求められている中で、若い人たちを励まそうと考えたものです。特に湯浅年子賞は、湯浅年子博士のご業績を称え、そして、その後に皆様が続いてほしいと考え設立いたしました。
湯浅年子先生は、お茶の水女子大学でもまたその前身であります東京女子高等師範学校でも教鞭をとられ、またフランスで長くご研究をされました。さらにご研究のみならず、とても美しい絵をお書きになられたり、歌を詠まれたり、本当に教養の高い方でいらっしゃったということを、実は私は山崎先生のご本で拝見いたしました。このように多岐にわたる能力を発揮した方々がいらっしゃったことを顕彰し、その資料を集積しておまとめになった山崎先生のご業績も改めて称え申し上げたいと思います。
市川先生には、これからまた若い学生たちの輝かしいモデルとなって、ご指導にあたっていただきたいと思っております。
本日、皆様においでいただきましたことを改めて感謝申し上げますとともに、Toshiko Yuasa Laboratoryのフランス側所長のPerret-Gallix様、日本側所長の幅淳二様はじめ、皆様のご協力に心から感謝申し上げます。
お茶の水女子大学賞、そして湯浅年子賞を輝かしく発展させていきたいと思っておりますので、これからもどうぞご指導いただきますようにお願い申し上げます。
本日は、誠に有難うございました。

司会:ありがとうございました。では引き続きまして、Toshiko Yuasa Laboratoryのディレクターであられます幅淳二先生から、ご挨拶を頂戴いたします。よろしくお願いいたします。

幅 淳二 氏(Director, Toshiko Yuasa Lab.)挨拶

本日は第1回湯浅年子賞授賞式、まことにおめでとうございます。
ご紹介いただきました、Toshiko Yuasa Laboratory、TYLと略しておりますが、その日本側の代表を務めております幅と申します。先ほど、副賞メダルの授与をしてくれたのが、Denis Perret-Gallixといいまして、フランス側の代表者であります。
Toshiko Yuasa Laboratory、TYLってなんだ?なんで、ここにそんな研究所がでてくるんだ?と、疑問に思われることでしょうから、ご挨拶の代わりに少しご紹介をさせていただきたいと思います。茨城県つくば市に高エネルギー加速器研究機構という研究機関がございます。大型の加速器を使って様々な基礎科学の研究をしているところでありますが、このTYLというのは、そこがホストしているlaboratory(研究所)であります。じゃあ、どこでフランスが出てくるかということですけれども、こういった加速器のような大型設備を使った研究をしておりますと、やはり世界的な連携ですとか協力というのは欠くことができません。そんな中、フランスの研究者と共同研究を進めていく中で、仮想連携研究所(Virtual Laboratory)というものを立ち上げまして、そこでさらに共同研究を推進していこうということになりました。それが平成18(2006)年のことです。その後、平成21(2009)年というのが、ちょうど湯浅年子さんの生誕100年にあたる年だったのですけれども、Perret-Gallix氏から、「かつて長期にわたって、CNRS(我々の連携相手の仏側研究機関)に所属され、原子核の研究に没頭、晩年には日仏の共同研究にも尽力された湯浅年子さんという女性物理学者がいらした。」ということを聞きました。我々の日仏連携研究所は、それまで「FJPPL」(France Japan Particle Physics Laboratory、フランス日本素粒子物理研究所)という非常に無骨な名前でしたので、湯浅年子女史の名前をいただいてはどうかと。そうすると非常に親しみも持てる良い日仏連携研究所になるんじゃないかという提案がありました。そこで、お茶の水女子大学の菅本先生、羽入先生、ご家族の方々にもお願いをして、お名前をいただけることになり、Toshiko Yuasa100周年記念ワークショップを開催、羽入先生にも参加していただいて、あらためてToshiko Yuasa Laboratory −TYLとしてスタートしたという、そういう経緯でございます。
さてこのようにしてToshiko Yuasaという名前をいただいたのですから、フランスと日本の連携をさらに強めるばかりではなくて、男女共同参画というと最近非常によく聞かれる言葉ですけれども、女性研究者あるいは女性技術者といってもいいんですけれども、科学技術系の分野に女性が進出することに、お役にたてることも少しはできたらどうかということになりました。そこで菅本先生とご相談して、ささやかではありますが色々な試みを始めさせていただいております。実は、来週にも第3回目が行われるんですけれども、「理系女子キャンプ」というのをTYLの主催で始めておりまして、理系を目指す女子高校生に来てもらって、研究所の施設・研究内容を色々と紹介するばかりでなくて、すでに活躍されている女性研究者、それから女性研究者の卵である大学院生のような人に来てもらって、理系女子志望の高校生と2日間交流も持ってもらうということを始めております。
そしてこのToshiko Yuasa賞にも、高エネ機構が参加、微力ながらも御協力できるよう機会を作っていただき、本日初めてそれを実現することができました。
これからもどんどんと女性研究者の進出があることを、高エネ機構あるいはTYLは期待しております。それは安倍総理がおっしゃる労働力不足の解消と言った次元の話ではなくて、女性研究者でなくてはできないということが、いっぱいあるということを我々は感じているからでありまして、その部分をぜひ我々の研究分野にもっと取り込んでいきたい、さもなければこの分野の未来はないとさえ感じているからであります。
以上、簡単ではございますけれども、湯浅年子賞授賞式お祝いのご挨拶とさせていただきます。

3. 選考結果報告

司会:幅先生、ありがとうございました。
それでは引き続きまして、選考結果報告をさせていただきます。これは私が、湯浅年子賞選考委員会の委員長をやっておりましたので、私からさせていただきます。

選考結果報告 菅本 晶夫(湯浅年子賞選考委員長・理学部長)

お茶の水女子大学賞、第1回湯浅年子賞は、平成25(2013)年5月14日に推薦の受付を開始いたしました。これは推薦形式でございます。
平成25(2013)年7月31日に締め切りました。
今回、5件の応募がございました。
審査委員会を開催して厳正な選考の末、今回は2名の「金賞」受賞者を決定した次第でございます。
選考委員会は、本学の理学部の各学科長5名、TYL(Toshiko Yuasa Laboratory)が推薦する有識者2名、理学部長が推薦する報道関係者1名、その他学長が必要と認めたもの2名、それに私を加えて、計11名で構成しております。
湯浅年子賞には金賞と銀賞がございます。
金賞は、自然科学の諸分野における業績が著しく顕著であり、国内あるいは国外において既に高い評価が確立している女性を顕彰するものであります。
銀賞は、自然科学の諸分野における業績が特に顕著であり、近い将来当該分野において、国際的に活躍する女性になると認められる者を顕彰するものです。
受賞対象者といたしましては、自然科学の諸分野において、顕著な研究業績を挙げた者ですが、自然科学の社会的普及活動、あるいは同分野の女性研究者を増大させる活動において顕著な業績を挙げた者も受賞対象者としております。受賞対象者は、日本国籍を有する者または日本において高等教育を受けた者としております。
今回は、「金賞」受賞者2名でございます。
まずは、山崎美和恵氏。埼玉大学名誉教授、お茶の水女子大学ジェンダー研究センター研究協力員でございました。業績が「湯浅年子博士に関する研究と著作活動」。山崎氏は、定年後から88歳の現在に至るまで(お亡くなりになったときは89歳でございましたが)、師である国際的物理学者湯浅年子博士が残した研究論文、研究ノート、科学的随想、短歌や詩、日記、スケッチ等の膨大な資料を詳細に読み解いて、現代社会に生きる人々に著作や論文によって、湯浅年子のメッセージを伝えた業績は極めて顕著です。 山崎氏の誠実な著作活動は、一人の女性自然科学者の生涯を明らかにするに留まらず、「科学とは何か」を改めて現代人に問いかけるものです。 従って山崎氏は、自然科学の社会的普及活動ならびに自然科学分野の女性研究者を増大させる活動において、極めて顕著な業績を挙げたと評価することができ 湯浅年子賞「金賞」受賞候補者として相応しいとの理由から選ばれました。 これが選考委員会の推薦理由でございます。
もう一方。市川温子氏。京都大学大学院理学研究科准教授。業績「ニュートリノ振動実験への寄与」。T2K (Tokai to Kamioka)実験は、平成25(2013) 年度、東海村を発したミューニュートリノ(muon neutrino)が神岡村で検出される際に、電子ニュートリノに転換されることを確認して、世界に先駆けて、ニュートリノ振動が起きることを発見しましたが、市川氏は東海村において、高強度で高品質のニュートリノビームを発生させるシステムを考案して、この発見に極めて重要な寄与を行いました。 市川氏の考案したシステムは、ニュートリノの発生源であるパイ中間子を収束させて揃えるための3連の磁気システム(ホーン)であり、これを用いることによって、従来と比較して格段に高品質で高強度のニュートリノを発生させることができました。この市川氏の研究が上記のニュートリノ振動の発見につながったと考えることができます。 従って、市川氏の研究業績は極めて顕著であり、国際的にも広く認知されていると評価することができ、湯浅年子賞「金賞」として相応しいとの理由から選ばれました。
今回は、湯浅年子賞「銀賞」は該当者なし。
以上が選考委員会のご報告でございます。ありがとうございました。

4. 受賞セレモニー

司会:では、引き続きまして、受賞者の講演会に移りたいと思います。
はじめは山崎美和恵先生でございますが、「湯浅年子博士に関する研究と著作活動」。
残念なことながら、 平成25(2013)年の12月16日にお亡くなりになりましたので、ご親族、東京大学大気海洋研究所教授の山崎俊嗣 さんと、本学、お茶の水女子大学教授の館かおるが、山崎 美和恵先生の思い出及びその業績についてお話いたします。
それに先立ちまして、平成20(2008)年5月31日ですね。今から8年ちょっと前でございますけれども、本学のホームカミングデーで、山崎美和恵先生に湯浅年子について講演していただいたことがございます。その時のビデオが残っておりまして、それを5分間に編集したものをまずお流ししたいと思います。その後で、山崎俊嗣様、館かおる様からお話をいただきたいと思います。

ビデオ講演:山崎 美和恵 氏(平成20(2008)年5月31日撮影)

久しぶりにお話をするので舌がうまく動かないので、お聞き苦しいかも知れませんけれども、よろしくお願いいたします。湯浅先生のことをご存知の方はたくさんいらっしゃると思いますが、あまりご存じでない方もいらっしゃると思いますので、まず簡単な年譜に沿ってお話をして、それから湯浅先生の研究者としての人生あるいはいろいろな面をお持ちなのですけれども、その特質的な面をまとめてお話ししたいと思います。
それでは年譜に沿ってちょっとお話をさせていただきます。
(年譜を見ながら)非常に簡単にしてご覧になりにくいかとも思いますけれども、国文学者で歌人でもある橘守部がお母様の曾祖父でいらっしゃるわけです。ですか

ら家庭内というのは、非常に江戸情緒豊かな、和歌とかお芝居とか長唄とか、そういう環境が湯浅先生の周りにあったわけです。それで一言でいえばお嬢さん育ちなのですけれども、子どもの頃から非常に不思議なことを見つけてそれをとことん考えて過ごす、非常に病弱だったんですけれどもそういうことをやっていると時間のたつのを忘れてしまうというようなお嬢さんだったらしいです。
それで4歳半ぐらいの時に生家が類焼に会いまして、市ヶ谷に引っ越されましてそれ以降市ヶ谷で過ごされることになるわけです。
大正11(1922)年になりますか、ここの附属の女学校に入学されまして、5年間過ごされるわけですけれども、国語が非常に得意で、国語の先生に可愛がられてもいたようです。それで誰もが文科に進むであろうと思っていたのに、女高師に昭和2(1990)年に入学する時は、「分からないこと」が気になって、理科に入ってしまったということです。
〈中略〉
自分自身のためでなく科学の進歩のために研究して行かなければならない、これはここでエレーヌさんが講演されたときに、これがまさに湯浅先生の人生の規範であったと講演の中でおっしゃった言葉なのですね。それから最後まで徹底的にというのは、これが共同研究者にしょっちゅう言ってらっしゃった言葉で、まさにこの言葉通り日仏共同研究まで頑張られたわけです。それから「科学の根本精神は、広い豊かな愛である。」これも若い頃の言葉なのですけれども、とにかく科学的な思考やら知性的な要素は必要なのだけれども、最後には科学に対する愛が一番底になければいけないということで、それから「真に科学する心はまた他のあらゆる本質的なことに通ずる心である。芸術に、文学に、そして宗教に通ずるものである。」この通りなのですね、科学随筆にはこういう芸術的なこと、それから宗教に関することが色々と取り上げられていて、このすべての分野にわたって非常に真剣に追求された方だということを付け加えさせていただきます。
(ビデオ講演終わり)

司会:では、山崎俊嗣様よろしくお願いいたします。

山崎 俊嗣 氏(親族・東京大学大気海洋研究所教授) 講演

山崎美和恵の甥であります、山崎俊嗣です。本日このたびは伯母山崎美和恵にこのような名誉ある賞をいただきまして大変ありがとうございます。
伯母は特に大学を退職してからは、湯浅先生の資料を整理し、特に後世の若い方にそれを伝えていくということをライフワークにしておりましたから、このような賞をいただいたことを伯母も喜んでいるものと思います。それで舘先生から伯母の思い出を言うように依頼を受けまして、私は実は近くに住んでいたことがあまりなくて、おそらく皆さんの方が私の知らない伯母を知っているのではないかという気がするのですが、こういう機会でありますので思い出話などを少しさせていただきたいと思います。
伯母は理論物理を専攻しておりまして、私は海底の地学が専門ですので、かなり分野が違うということで、サイエンスの話をあまりした記憶が無いのであります。ですけれど、ひとつ覚えているのは私が大学に入って地質学を専攻することになったという話をしたときに、まぁ難しいことをやるのねといわれて、私から見れば理論物理学というのはもっと難しいのではないかと思うのですけれども、伯母すると理論で割り切れないものというのが難しいものというような感覚だったのではないかなというふうに思っております。
それから数年前位には、私もだんだん年とともにアドミニストレーションに追われることが多くなった云々ということを嘆いたら、伯母からそういうのは要領よくやってサイエンスをやらなきゃダメよというように激励をされまして、それは先程の湯浅先生の科学する心の文が出ておりましたけれども、それに通ずる心かなと思いました。
さて、ことサイエンスを離れますと、私から見れば伯母は、どこにでもいるおばさんといいますかおばあちゃんといいますかそんな感じでいまして、私の父の兄弟姉妹は8人おりまして美和恵伯母が一番上でした。その兄弟姉妹は私から見ると結構変わり者が多かったのですけれども、私から見て一番ノーマルなのが美和恵伯母だったように思います。兄弟はなんといいますか賑やかというかかしましい人が多かったのですけれど、伯母はいつも物静かに話をして、お姉さんだなという印象がいつもしておりました。
それから湯浅先生のことを書いた本の中に、一本気ですぐ行動に移そうとする先生を、まあブレーキ役に伯母がなっていたようなところが、湯浅先生の本の中に、湯浅先生が帰国された時に、東京の広い、非常に車がたくさん走っている広い道路を歩道橋を無視して突っ切るようなところがあってそれを伯母が止めようとするようなところがあったのですが、伯母の性格はどちらかというと慎重な性格だったのではないかなと私は思っておりました。
あと、伯母がパリに留学したのが、私が小学校1年生くらいの時だったと思います。当時理系の女性が海外に留学するということが大変すごい珍しいことだったということが、その当時の子どもの私には全然分かりませんで、伯母から父、つまり私の祖父に届く便りのフランスの切手が欲しくて、それをもらうのが楽しみだったということを覚えております。
当時他の兄弟姉妹はほとんど故郷の豊橋に住んでおりましたのですけれども、伯母は東京に住んでいてパリから帰ったあと、正月には兄弟姉妹が新年会で集まるのですけれども伯母は忙しくてあまり来られないことが多くて、今思えばちょうどその頃脂の乗り切った研究者として大変忙しかったんだろうと、お正月くらいしか物理の理論を考える時間がなかったのだろうと思いますが、子供心にも学者って忙しいんだなあと思いました。その頃将来私が研究者になろうとは全く思ってもいませんでしたけれども。あとそうですね、伯母は私にとって身近だったためか、女性が物理の研究者になっているという事について不思議だと思った事は私自身には全然ありませんでした。父から聞いたところでは、貧乏な家だったそうで子どもに残せるものは教育しかないということで、好きなことをやらせるということが私の祖父のモットーだったということのようで、そういう環境でおそらく物理を専攻するということになったのだろうと思っております。
当時女性が研究職として生きて行くことがいかに大変だったかということに思いを巡らすようになったのはわりと最近のことであります。伯母がジェンダーのことについては言いたいことがたくさんあるのよと言っていたのですけれど、それをゆっくり聞く機会がないままに他界してしまったことをとても残念に思っています。
私が行なっている海洋底の、海洋調査船に乗ってフィールドワークをするっていう分野の私が就職した30年近く前には、女性は稀というか、ほとんどいなくて、当時の海洋調査船には女性用トイレもなくてという状態だったんですけれど、今はもう若手の女性研究者はどんどん進出して、当然トイレも風呂もございます。私も大変嬉しく思っておりますし、まだ女性がそういう分野で活躍していくのに障害がまだまだあるということも承知しておりますが、私も研究教育を職とする、携わる者になったものとして、今後女性研究者の育成に少しでも貢献できれば、湯浅先生そして伯母の遺志を少しでも果たすことができるかなというように感じております。今日はどうも賞をいただきまして大変ありがとうございました。

司会:ありがとうございました。では引き続きまして舘かおるさんに山崎美和恵先生の業績についてお話しいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

舘 かおる 氏(お茶の水女子大学 教授)講演

舘かおる氏の写真

平成25(2013)年度第1回 湯浅年子賞金賞受賞者の山崎美和恵埼玉大学名誉教授は、お茶の水女子大学客員教授・ジェンダー研究センター研究協力員として、「湯浅年子博士研究」に打ち込まれ、その先駆者としての任を担われました。しかしながら平成25(2013)年12月16日に急逝なされ、本日この受賞式にて、これまでの山崎先生の研究成果をご講演いただけないことはまこと残念です。私は、山崎先生と共にジェンダー研究センター(IGS)の「女性自然科学者研究」プロジェクトに関わった関係から、山崎先生の湯浅年子研究についてご紹介させていただきます。この度、山崎先生の遺品も山崎家から本学にご寄贈いただきました。その中に、若き日の山崎先生の写真がありましたので、追悼の意味を込めて、ここに掲げ、報告に入りたいと思います。(なお、文意を明確にするために、当日の報告に加筆修正を加えた事をお断りしておきます。)

ジェンダー研究センターにおける「湯浅年子資料研究」の経緯

ジェンダー研究センター(IGS)は、前身の女性文化資料館の時代に『お茶の水女子大学百年史』を編纂していた関係もあり、日本の先駆的女性科学者の資料収集及び研究には力を注いで来ました。特に、日本の女性自然科学者の博士号取得第1号である生物学の保井コノ博士を初めとして、化学の黒田チカ博士、農学の辻村みちよ博士、物理学の湯浅年子博士など、皆、東京女高師の卒業生で教員となった方々でした。こうした先駆者たちの資料から、「女性自然科学者研究」という研究分野が蓄積されて行ったのは、先駆者であった教員たち、そしてその研究を引き継いで行った弟子たちの努力の賜物と言えます。例えば、保井コノ博士の研究は、三木(広重)寿子先生、黒田チカ博士の研究は、前田侯子先生、辻村みちよ博士の研究は、山西貞先生がなさってくださいました。そして、山崎先生は、埼玉大学を定年後に、物理学者であり、稀代の文筆家であった湯浅年子という女性物理学研究者の存在を世に残す仕事に邁進し、それを成し遂げて来られました。本日は、山崎先生による「湯浅年子資料研究」の一端をご紹介したいと思います。
昭和55(1980)年に湯浅先生が他界し、甥の市井敏夫氏から、パリにあった膨大な湯浅先生の遺品類が、89箱ものダンボールやトランク等により運ばれ、お茶の水女子大学女性文化資料館に寄託されました(以下湯浅資料と略記)。まず、東洋大学の八木江里教授と元理化学研究所員の松田久子氏が中心となって、その整理作業が行われましたが、平成2(1990)年頃からは山崎先生が中心となり、湯浅資料の緻密な整理を踏まえた上での検証に取り組まれました。湯浅資料を読み解くには、フランス語で書かれた物理学のノートの内容や日本語の物理学用語との関係がわかり、その物理学のノートに記されている、フランス語の詩や随想、日本語で書きつらねられた短歌や詩が理解できなければなりません。フランス語による表現の真髄がわかり、物理学が分かり、かつ詩や短歌や随想といった文学の素養がなければ湯浅年子研究が出来ないのです。山崎先生が、その「多彩な湯浅年子」を後世に伝える能力を備え、稀有な役割を果たされたことに関し、深い感銘を覚える次第です。この度、山崎先生のご逝去後に、山崎先生がなされた湯浅年子資料研究に関する資料、山崎先生ご自身についての資料もIGSにお送りいただきました。単行本につきましては、お茶大附属図書館にほとんど寄贈させていただきいただき、数冊の図書と文書資料類は、本学の歴史資料館で保存することにいたしました。
 

山崎美和恵先生の略歴

ここで、山崎美和恵先生の経歴について簡単に紹介させていただきます。山崎先生は大正13(1924)年10月に愛知県豊橋市に生まれ、昭和17(1942)年に東京女子高等師範学校の理科に入学し、湯浅年子先生の薫陶を受けました。卒業後、同校の化学研究室の嘱託をなさり、昭和21(1946)年4月に東京文理科大学(東京教育大学、筑波大学に継承)の物理学科に入学、卒業後、昭和24(1949)年5月に東京文理科大学大学院の物理学研究科に入学なさいました。なお昭和24(1949)年4月から昭和38(1963)年3月まで女子学院中学・高校の非常勤講師をなさっています。山崎先生は、女子中学・高校生に対して、理科への関心を喚起することを大切にしておられましたが、女子学院での授業の経験がそれを促したように思われます。大学院修了後の 昭和32(1957)年10月に東京教育大学の臨時教員補助員、昭和35(1960)年から東京教育大学の理学部の非常勤講師を勤め、昭和37(1962)年8月に東京都立大学の理学部の助手になられ、昭和41(1966)年3月まで勤められました。昭和40(1965)年には、パリ大学の原子核研究所の委託研究員として湯浅先生のもとで研究に従事します。昭和41(1966)年4月に埼玉大学教養部助教授として赴任し、昭和41(1966)年4月に教授になられ、そして平成2(1990)年3月に同大学を定年退職、名誉教授となられました。定年退職後は和洋女子大学非常勤講師、お茶の水女子大学の客員教授、ジェンダー研究センター研究協力員として、お亡くなりになる直前まで、湯浅年子研究に力を尽くされました。
ご逝去の数週間前、湯浅年子賞受賞の内定をお知らせした時、畏れ多いと辞退なさいましたが、湯浅年子研究を完成させることが山崎先生の使命と申し上げたら、「実はまだ自宅に整理していない資料があるから早速それを仕上げます」と山崎先生らしい真摯な反応をなさったので、受賞式を心待ちにしておりました。湯浅年子賞受賞を伝えることができたとことを慰めとしている次第です。

山崎先生が東京教育大学非常勤講師時代の物理学科の教員と院生の集合写真
東京教育大学非常勤講師時代の物理学科の教員と
院生の集合写真
オルセー研究所で湯浅年子先生との写真
オルセー研究所にて 湯浅年子先生と
(昭和40(1965)年3月から昭和40(1965)年9月)

上の写真は、 昭和35(1960)年から昭和37(1962)年頃、山崎先生が東京教育大学非常勤講師時代の物理学科の教員と院生の集合写真のようです。当時の女性研究者の姿を映し出す象徴的なものなので、お見せしたいと思いました。この写真の中で女性は山崎先生と後ろにいる、台湾の林さんという留学生のみです。理論物理学という専門の故もあるかもしれませんが、女性が2人しかいません。山崎先生は、私にも、常に物理学を志す女子学生、女性研究者の増加を願っていることをお話くださいましたが、山崎先生自身がこのような環境で講師を務めながら、その思いを強め、湯浅年子先生の軌跡を世に示す仕事をなさっていたのだと痛感しました。(なお、この写真の方々の確定には、授賞式当日にご参加いただいていた、昭和34(1959)年東京教育大学大学院入学生の内山富美代氏に氏名確認の協力をしていただきました)。
右の写真は、山崎先生がオルセー研究所に留学なさった時の、湯浅先生との写真です。山崎先生が、昭和36(1961)年9月に東京教育大学より理学博士の学位を授与後、東京都立大学助手時代に委託研究員としてオルセーで研究に従事した時代です。湯浅先生と一緒にオルセーで勉強できたということに関しては、いつも思い出深く語っておられました。山崎先生にとり、湯浅先生が女性物理学研究者のロールモデルでした。

山崎先生の「湯浅年子研究」

書籍 湯浅年子パリに生きて

次に、湯浅年子賞の対象となった、山崎先生による「湯浅年子研究」の主な業績を本の表紙をお見せしながら紹介いたします。
『湯浅年子パリに生きて』(平成7(1995)年、みすず書房)は、山崎先生が最初に湯浅年子先生についてまとめた編書です。湯浅年子先生の心情に触れるような短歌と日記を中心に編まれていて、物理学研究者であると同時に多彩な芸術的表現力を有していた湯浅先生の姿を生き生きと描きだした本と言えます。お気づきの方も多いと思いますが、戦前の物理学者には、文学と科学と両方に秀でた方がいらっしゃいました。寺田寅彦や中谷宇吉郎などの博士たちを思い浮かべる方も多いと思いますが、湯浅先生もそういう意味では理系、文系両方共に優れた才能をお持ちの方でした。また自然科学者が文学に向かうことによって、いわゆる文学プロパーの人とは違う捉え方、知性の煌きを見せることが多かったと思います。

書籍 パリに生きた科学者 湯浅年子

『パリに生きた科学者 湯浅年子』(平成14(2002)年、岩波書店)は、岩波のジュニア新書として発行されたものです。この本は、10代の女性たちにとても大きな影響力を持ちました。湯浅年子の生き方を若い人たちに伝えたいという思いで、岩波ジュニア新書として書かれたものなのですが、読者からの反応も多く、特に若い少女たちが自然科学に進路を選択する際の大きな糧となりました。菅本先生もよくご存知ですが、例えば山崎美和恵著のこの本を読みまして、本学の物理学科に入学された洪江美さんという方がいらっしゃいます。洪さんは、現在オルセー研究所の研究員になられています。湯浅先生に憧れ、本学の物理学科に入学し、オルセー研究所の研究員として研究をしていることが、湯浅先生の導きというか、何か不思議なものを感じると話しておられました。

書籍 物理学者 湯浅年子の肖像

『物理学者 湯浅年子の肖像』( 平成21(2009)年、梧桐書院)は、山崎先生の編書ですが、湯浅先生の研究や文筆活動の全貌と、それが人々に与えた影響力を顕在化すべく、山崎先生自身による記述と共に多数の執筆者によって構成された書です。山崎先生のこれまでの湯浅年子研究が集約されつつ、さらなる広がりを加えた著作として多くの方に読まれていると思います。この書の帯に「なぜ、こんなにも、1人の女性科学者の生涯に心うたれるのか」と書かれていますが、「湯浅年子」という存在に出会った人々は、付き動かされるような影響を受けるのです。それは理論物理学の専門の研究者だけではなく、学生ほか、様々の分野の方にも同様であることに感嘆しております。

湯浅年子公開資料目録

次は、山崎先生が作成した『湯浅年子公開資料目録』です。先程のパリから届いた89箱の段ボールを整理した後、記録のために『資料目録』を2冊まとめたのですが、山崎先生は、物理学者及び文筆家としての湯浅先生の全貌を伝えるような形で目録を整理してくださっています。

ジェンダー研究4号

次に、山崎美和恵著「湯浅年子博士の科学と人生」お茶の水女子大学ジェンダー研究センター編・刊『ジェンダー研究』4号(平成13(2001)年)は、日本で生まれ、マリー・キュリーに触発され、フレデリック・ジョリオ=キュリー、イレーヌ・ジョリオ=キュリーの薫陶を受けつつパリで理論物理学を専攻し、かつ文学的才能に秀いでた女性物理学者という、伝記的な側面のみではなく、理論物理学者湯浅年子の模索と軌跡を論じており、自らも物理学者である山崎先生にしか書けない水準の分析がなされていて、注目に値します。
山崎先生は、湯浅の物理学研究の時期を、以下の8期にわけて論じています。
1.原子分子分光学の研究―東京文理科大学(昭和6(1931)年から昭和14(1939)年)
2.β崩壊の研究―コレジ・ド・フランス原子核化学研究所(昭和15(1940)年3月から昭和19(1944)年8月)
3.二重焦点型β線分光器の作製―ベルリン大学附属第一物理研究所(昭和19(1944)年8月から昭和20(1945)年6月)
4.原子核研究禁止令―東京女高師(昭和20(1945)年7月から昭和24(1949)年2月)
5.原子核分光学の研究―コレジ・ド・フランス原子核物理・化学研究所(昭和24(1949)年から昭和32(1957)年)
6.中エネルギー核反応の研究―オルセー原子核研究所(昭和33(1958)年から昭和45(1970)年)
7.少数核子系の研究( 昭和42(1967)年から昭和55(1980)年)
8.日仏共同研究(昭和48(1973)年から昭和55(1980)年)―フランスのCNRS と日本学術振興会 JSPS との間で発足した「日仏科学協力事業」に基づく研究。
なお、湯浅先生は、『人工放射性核から放出されたβ線連続スペクトルの研究』により、昭和18(1943)年12月6日にフランス国家理学博士(Docteur ès Sciences Physique)の学位を得ておられます。湯浅先生の博士論文展開過程で、彼女が最先端の理論物理学研究及び原子力とどのように向き合ったかということについて、山崎先生は詳細に説明されており、私のように原子力については専門外の者も、理論物理学の専門家も、示唆をうける論考になっていると思われます。
その他に山崎美和恵編の私家版として、年代は明確に規定できませんが、『心の雫-湯浅年子・詩歌・スケッチ撰集』、『湯浅年子 スケッチに寄せて』、『湯浅年子のパリ断想―詩歌・スケッチによる』、『湯浅年子の作家論』、『湯浅年子詩集 テラン・ヴァーグ』、『湯浅年子資料 短歌・俳句・詩 収録』、『保井コノと湯浅年子 往復書簡 昭和26(1951)年から昭和43(1968)年』、『湯浅年子の科学する心』、『物理学者・湯浅年子の科学と宗教そして生と死と』、『戦時下の原子核研究と研究者』、『湯浅年子の核と平和問題』(平成23(2011)年)などがまとめられており、その他の活動としては「湯浅年子の科学とヒューマニズム」についての省察を提示し、日本への原爆投下、広島の原爆被害の様子を『ユマニテ』に掲載した記事の紹介や『第五福竜丸被曝事件と湯浅年子』を記されています。


書籍 心の雫 湯川年子、詩歌、スケッチ撰集

その他、湯浅先生が、学生たち一人一人に向けて、和歌を読んで贈った色紙やスケッチ、フランスの文学者と哲学者の作家論、また山崎先生ご自身の詩も記されておられました。ところで、湯浅資料整理の際のエピソードになりますが、湯浅先生の書いたノートは、ほとんど判読できない程の走り書きで、物理学のノートには物理学の数式が書いてある横のスペースにはフランス語や日本語の詩が書いてあり、それが円を描くように上に続き、それがまた下に返ってきて斜めに動きとか、とても判読が難しい書き方をなさっているのです。しかし山崎先生は、そのような湯浅先生の記述を丁寧に読み解き、このような形にまとめてくださいました。


保井コノ、湯川年子博士の往復書簡

山崎先生がおまとめくださった貴重な資料には、「保井コノ・湯浅年子博士の往復書簡」があります。在学中から湯浅先生は保井先生に憧れ、生物学と物理学のどちらを自分の専攻とするか、本当に迷ったようでした。二人の優れた女性研究者の対話は、示唆にとんでいます。なお、山崎先生は、湯浅先生に関わるビデオの制作にも協力なさっています。「ラジウム発見100年」にあたり理化学研究所と共同でビデオを作成するなどの際には、私も山崎先生とご相談しながら進めて参りました。


湯川年子の核と平和問題

現時点で、私が注目したいのは、湯浅先生が科学と宗教と生と死という事を常に見つめていらしたことと、戦時下の科学、原子核研究と研究者の倫理という、今に通じる課題を示していることです。山崎先生もこの問題を、平成23(2011)年の段階で真摯に考えておられました。福島原子力発電所のメルトダウンの際に、山崎先生は、湯浅先生だったらこれをどう見るか、これからの理論及び実験物理学がどの様に活路を見出していくべきかという問題意識の下に、「湯浅年子の科学とヒューマニズム」についての省察を提示なさいました。
原爆投下時の広島での被害の様子について、湯浅先生が調べて『ユマニテ』に掲載された記事も紹介なさいました。そこには、原子力爆弾が広島にどのような害を与えているかということを明らかにし、フレデリック・ジョリオ=キュリー先生が平和利用ではない形で核を使うことを禁止する「ストックホルムアピール」を出したという事に注目しながら論考がまとめられています。また、山崎先生自らも行動なさったのは、「第五福竜丸被曝事件と湯浅年子」という研究をなさった時です。 昭和29(1954)年に米国がマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船である第五福竜丸の船員が被曝して死亡した事件です。湯浅先生は、この事態を非常に重く捉え、ラベリーグー=フロロウ(Mme Laberiigue-Frolow)夫人と共著で「昭和29(1954)年3月1日のビキニの核爆発による放射能灰の日本でなされた分析についての報告」を『病院週刊誌:病理学と生物学』(昭和31(1956)年)に寄稿しました。山崎先生は、フレデリック・ジョリオ=キュリー博士と湯浅先生の意図した核エネルギーの平和利用について省察し、その活動を引き継ぐべく、関連する湯浅年子資料を第五福竜丸記念館に寄贈しました。後でその時一緒に立ち会った、湯浅資料担当の城石さんから山崎先生のご様子などのお話いただけると良いと思います。

次世代につなぐ活動

女性科学者展(なでしこたちの挑戦)
(舘かおる撮影)
女性科学者展(日本の技術者科学者の肖像)

湯浅先生の次世代につなぐ活動を、今申し上げたように核の問題を理論的に考えていくこと、科学と平和の問題を考えていくことは勿論不可欠ですが、同時に女性の科学者の育成を次代につなぐ活動を考えていくことも必要です。例えば、 平成20(2008)年の3月から 平成20(2008)年5月まで、国立科学博物館で「女性科学者展」を開催いたしました。IGSにも協力依頼がきましたので、女性科学者たちのコーナーを「なでしこたちの挑戦」と題して、日本で初めての女医である荻野吟子そして吉岡弥生、栄養学の香川綾、生物学の保井コノ、化学の黒田チカ、物理学の湯浅年子という先駆者たちが、学問研究を続けていった軌跡を展示しました。山崎先生も勿論協力しましたが、日本の国立科学博物館で女性科学者展をここまで大規模にやったのは初めてでした。この「なでしこたちの挑戦」のあと、この6名の女性科学者のレリーフが、国立博物館の常設展示「日本の技術者科学者の肖像」のコーナーに、湯川秀樹、野口英世等の科学者と共に刻まれました。それまで女性科学者のレリーフは皆無でしたので、画期的なこと言えます。 最後に、山崎先生の「湯浅年子研究」の意義を以下にまとめました。
1.山崎氏は、戦前、戦後期にわたる日本における専門的な物理学研究の発展の一翼を担うと同時に、師である湯浅年子博士の生涯にわたる多面的な研究活動と執筆活動を詳らかにすることにより、日本の科学史研究及び日仏両国の物理学研究交流史研究に資する役割を果たしたといえる。
2.湯浅年子博士の研究・著作活動を、『岩波ジュニア新書』という社会的普及度の高い媒体において描き出し、日本の少年少女が自然科学への関心を喚起する契機を与え、また女性が自然科学者として研究を行うことの魅力と可能性を提示し、後進を育成する契機をもたらしたことは大きな功績と言える。
3.山崎氏が湯浅年子博士から薫陶を受けた、社会的政治的状況と科学のあり方を洞察する姿勢の真摯さは、平成23(2011)年3月の東日本大震災以降の日本社会へ向けて、私家版の山崎美和恵著『湯浅年子の核と平和問題』(平成23(2011)年)を著したことに示される。山崎氏は、広島の原子爆弾及びビキニ環礁での水爆実験により被曝した漁船第五福竜丸事件へ対峙する科学者の責任を、湯浅年子博士からのメッセージとして提示し、次世代への継承を行った意義は大きい。
4.山崎氏は、湯浅年子博士の自然科学の研究業績や文化活動、思想や社会的発言を知悉しているが故に、かつ湯浅年子博士と同じく、文系理系の垣根を越えた深い教養と見識と能力により、「湯浅年子研究」を通じて、「日本における女性自然科学者研究」という研究領域の先駆者としての仕事を行った。このような足跡は、自然科学の社会的普及活動あるいは同分野の女性研究者を増大させる活動において、顕著な業績を挙げた意義深いものと評価し得る。

山崎先生の仕事を私はこのような観点から評価したいと思い、皆様にご報告させていただきました。ご清聴ありがとうございました。

司会:どうもありがとうございました。ご質問等はございますか。城石さん、何かコメントがございますか。

城石氏コメント:私は湯浅年子博士の資料の整理を平成22(2010)年の7月くらいから平成24(2012)年の9月までお手伝いさせていただき、山崎先生には随分お世話になりました。確か平成23(2011)年だったかと思うのですけれど、山崎先生と新木場にある第五福竜丸展示館に行ってきたことを思い出しています。
平成22(2010)年から平成23(2011)年には、山崎先生は月に1回くらい1泊2日で豊橋からお茶大までこられて大塚にお泊まりになられて2日間ずっと続けて湯浅年子資料を見てくださり、私は目録の再構成のお手伝いをさせていただきました。いつも先生は資料や本が入っている、すごく重たいキャリーバックを持ってこられるのですが、「お持ちします」と私が申し上げると、先生は杖替わりでバランスが取れるからと、いつも引かれて来られました。展示館に行った時もお茶大から新木場まで行って、新木場からも展示会まで結構歩くのですけれど、「タクシー呼びましょうか」といっても「これぐらい歩ける」といつものキャリーバックをゴロゴロ引いておられました。展示館の中は、第五福竜丸の被曝した船体をそのまま保存してあり、山崎先生は、こういうものを保存することはすごく意味のあることだと述べ、展示してある資料について興味を持たれて学芸員の方に逐一質問されておられました。そして、先程の小冊子を含めて新しく書かれた第五福竜丸関係の資料の目録等を学芸員の方にお渡しして、「どうぞご活用ください」とおっしゃっていたことが、懐かしく思い出されます。

司会:城石さんありがとうございました。では次に市川温子さんよろしくお願いいたします。ニュートリノ振動実験への寄与ということでございます。

市川 温子 氏(京都大学理学部准教授)講演

京都大学の市川と申します。本日はこのような素晴らしい賞をいただきまして、また授賞式を開いていただきまして本当にありがとうございます。今回湯浅年子賞を頂くというのがメーリングリストに流れたら、大学院の頃の恩師の方々からおめでとうというメールがいっぱい来て、その定年された恩師の先生たちが若い頃に湯浅年子さんに大変お世話になったというような話を聞かされて、非常に恐縮しております。
40分で話をしなさいということで、持ってきたのが今回の受賞でも関係する研究で、ニュートリノで迫る素粒子の謎ということでお話しさせていただきたいと思います。40分より短くなるかと思います。どこまできちんと研究の内容を伝えられるのかを私の拙さで分からないのですけれど、今日お話があった、山崎さんが紹介された湯浅年子さん、科学への愛だという話だったのですけれど、せめて私のニュートリノへの愛が伝わるかどうか頑張ってやってみたいと思います。研究をどこまで伝えられるか分からないのですけれども。まずニュートリノって何かということなんですけれども、ニュートリノというものは素粒子の1つということが分かっております。皆さんも理系の方だとご存知だと思うのですけれども、あらゆる物質というのは分子でできています。そしてあらゆる物質が原子でできていて、そして現代の科学というのはこの原子の中を見ていくと原子の中を細かく見ると原子核と電子というのがあって、原子核の大きさというのは10のマイナス15乗メートルといわれています。元々の原子というのは10のマイナス10乗メートルなので、ここで5桁、原子の10万分の1という大きさの原子核というのが原子の中心にあります。そしてその原子核というのも細かく、キュリー夫人や湯浅年子さんの時代に研究された結果、実は陽子と中性子というものでできている、そしてその陽子と中性子というのもその後の研究で細かく細かく加速器というものを用いて研究していくとどうもその中にはクォークというものが入っていることが分かっています。現代では物質を構成する素粒子というものとして、クォークと、それから電子の仲間である電子、ミュー粒子、タウ粒子、それから電子の仲間でもちょっと毛色の違うニュートリノというこれだけのものがあるということが分かっています。先ほども申しましたように、素粒子というのは、原子核ですら素粒子よりも大きいのですけれど原子核というのは原子の中で10万分の1だと、これを、原子を東京ドームに例えるとその10万分の1なので原子核の大きさというのは実は東京ドームの真ん中に落ちた針の穴ほどの大きさしかありません。電子に至ってはさらに小さいということが分かっています。そうすると、皆さん、物質というものは重い固いものだと思われると思うのですけれど、実際は素粒子の目で見るとほとんどスカスカの空々のものです。極々真ん中、針の穴の中に重いものがあるだけでほとんどの物質というのは、皆さんの体というものは実はスカスカの物質でできています。でもやはり固いわけですね。こうちゃんと自分の体を保っていられる。じゃぁどうしてそういうふうに保っていられるかというと、力が、素粒子の間に力が働いていてその力が働いていることによって固さを保っているわけです。自然界に存在する力としては、われわれは電磁気力そして強い力、冗談みたいな名前なんですけれども強い力、弱い力、重力という4種類があるということを最新の科学は知っています。その中で弱い力というのはどのくらい弱いかというと、電磁気力よくただし静電気とか感じますが、ああいう電磁気力の一千万分の1くらいの力しか持っていません。そしてニュートリノというのはいろいろな素粒子の中で唯一重力と弱い力しか感じないそういう粒子です。重力は弱い力よりさらに弱く、そうすると力がそれだけ弱いものにとっては、要するに物質というのはほとんど空っぽの空間の中に針の穴が時々落ちているという、そういうイメージです。ですので、ニュートリノというのはどんな重い物でも難なく通り抜けていく、そういう奇妙な素粒子です。身の回りにはニュートリノというのは実は満ち溢れています。普段感じることはないのですけれど、太陽というのは核融合が真中で起きていて、そして熱が出て光が地球に注いでいるんですけれど、核融合の過程でニュートリノというのがどんどんできています。地球の表面では1秒間に1平方センチあたり約600億個のニュートリノが今現在ドンドンドンドンものすごい数が皆さんの体を突き抜けています。でも突き抜けているのですけれども東京ドームの針の穴なのでほとんどスカーっと抜けていくということです。それから大気でも宇宙線というのが、宇宙からやってきた陽子やヘリウムというのが降り注いでいるんですけれどもその陽子やヘリウムが大気で反応していろいろな粒子を出すのですけれどもその時にニュートリノというのもできていてこの場合は手のひらに大体1個くらい、毎秒1個くらいのニュートリノがどんどんどんどん突き抜けています。ここに屋根がありますけれども関係なくどんどん皆さんの体も貫いています。その他地中や原子炉でベータ崩壊でニュートリノが発生しています。どれくらいニュートリノが貫通するかというのをもう一度、例えば水があったとします。例えばボールを水にぶつけると、当然通り抜けることができない。それから放射線で有名なガンマ線、身の回りに自然界に存在する典型的なエネルギーで比較すると、ガンマ線というのが10センチくらい水を突き抜けます。それから電子は1センチ位、アルファ線という放射線、自然界に存在する放射線は10ミクロンくらいしか通らない。それに対して空から降ってくるニュートリノは10の8乗キロメートルくらい水の中を突き抜けることができる。
10の8乗キロメートルというのはどれくらいかイメージしにくいと思うのですけれども太陽と地球の距離がそれくらいです。ですので、空から降ってくるニュートリノで体に害がないかと心配するのは全くの無意味で、皆さんの体がもし太陽と地球の大きさくらいがあったら1回くらいはそれとぶつかるかもしれないという、それくらいニュートリノというのはそれくらい弱い反応しかしない。それから太陽からのニュートリノというのはさらにエネルギーが低い関係でもっと反応しなくて、水の中だったら100光年水があっても、そうすると1回くらい水の原子核とぶつかるという、それくらい貫通力の強い粒子です。もう一つニュートリノに特徴的なのは他の素粒子に比べてすごく軽いということです。陽子の重さというのは10のマイナス24乗グラム、我々の単位でいうとこういう単位です。電子はその2,000分の1なのですけれども、ニュートリノというのはその百万分の1以下ということが分かっています。なのでニュートリノには重さがないということが素粒子物理学で長い間信じられていました。今、素粒子物理学で確立している標準理論という大層な理論があるんですけれどもそれもニュートリノに重さがあると変更しなければならないということで、ニュートリノに重さがあるというのはちょっと今の理論からすると変な現象になる。それからもうちょっとまとめるとニュートリノというのは実は3種類あることが分かっています。なぜ3種類かというのは聞かないでください。それはもう現代の科学では分からない。けれどいろいろな素粒子がどうも3種類ずつあるみたいで、ニュートリノにも電子ニュートリノ、ミューニュートリノ、タウニュートリノというのがあり、弱い相互作用だけを感じる。ほとんど物質と相互作用しなくて観測するのが非常に難しい。すごく軽い、それから後で出てくるのですけれど自然界で特に空間反転、鏡に写したときに物理法則は変わらないはずだとずっと長い間人類は信じてきたのですけれど、それをすごく破っている、鏡に映すと反対の反応をしたりするという非常に奇妙な粒子です。そんなニュートリノもごく稀に物質と反応します。そうでなければ観測はできないのですけれども、本当にごく稀に、だから地球と太陽の距離位水を置いておけば1回くらい反応する。例えば電子ニュートリノというのは物質中のクォーク、原子核の中のクォークと反応すると電子に変わるという非常に奇妙な性質を持っています。そうすると電子に変わると、電子というのは電荷を持っているので測定器というもので測ることができます。3種類、なぜニュートリノにあるということが分かるかというと、電子に変わるニュートリノとミュー粒子に変わるニュートリノと、タウ粒子に変わるニュートリノというのがある、そこから3種類あるということが確かめられています。ですので、反応した後に何が出てきたというのを測れば、元のニュートリノが何だったかということをつきとめることができます。ということでニュートリノを捕まえようという検出器が世界中にいっぱいあるのですけれども、その特徴としてはひたすら大きくないといけない、それから他の粒子に比べて非常に滅多に反応しないので邪魔にならないように地下に置かなければならないし、それから大きくするために安い材料でなければいけない、簡単な原理でないと大きくできない、そしてわずかな信号も逃さない、そういうことがニュートリノ検出器として求められます。日本というのは世界に誇る、世界一、ダントツの一といってよいニュートリノ検出器というのを持っていて、スーパーカミオカンデ検出器というもので岐阜県の山奥に鉱山の跡地に作られた山の頂上から1,000メートル地下にあります。大体5万トンの水を、地下水を使って蓄えているということです。39メートルと 42メートルという50メートルプールを深さもそれぐらいにしたというイメージでそこに約1万本の光の検出器が壁に沿って置いてあるというものです。この水の中でニュートリノがごく稀に反応して出てくる荷電粒子、電気をもった粒子が放出する微弱な光をこの1万本の光検出器でとらえるというのがこのニュートリノ検出器です。この写真でこの1個1個が光の検出器です。ここに人がいて、検出した光をデジタル処理して画像にしたのがこの図で、ニュートリノがこのように観測される。水を入れるとこのようになります。きれいな純水を入れるので青く見えます。問題はなぜ今ニュートリノの研究を皆がしているかというと、ニュートリノに関して非常に奇妙な異常が見つかったというのが最初の発端です。昭和35(1960)年代に始まるのですけれど、太陽の核融合で発生している電子ニュートリノを実際に地球で測ってみようかと、さっき言ったように何百億個と来ているので、測りましょうという事をやり始めた、そうすると期待値の約半分しか観測されなかった。太陽からの光の量というのは我々知っているのでそれを、その光を作り出すのに必要な核融合の量というのは分かるのでニュートリノの量というのも予想できるのですけれども実際に測ったら半分しかなかったという問題があった。それから大気でできるニュートリノの内ミューニュートリノというのが、上から来るのと下から来るのを比べると地球の裏側から来る分だけが予想の半分しかなかった、そういう問題があった。それに対して、ではなんでだろうということで言い出されたのがニュートリノ振動という現象です。ニュートリノ振動とはなんぞやというと、量子力学にここだけ立ち入らないといけなくなってしまうんですけれども、量子力学の世界、素粒子の世界はとても奇妙で、物質が粒子といっておきながら実はその粒子というのは波の性質を持っているというのが量子力学の非常に奇妙な性質です。ニュートリノもだから粒子というのですけれども波の性質を持っています。そしてこれもまた非常に奇妙なことなですけれども、ひとつの粒子というのが何種類もの質量を持つことが可能になってきます、量子力学では。普通粒子というのは電子だったらこの重さと決まっているように思うのですけれど、量子力学の世界ではそういうことが許されている。違う質量を持った波であって、例えば、ミューニュートリノというのがある質量Aの波そして別の質量Bの波の重ね合わせ状態ですと考えることができる。それからタウニュートリノも同じ2種類の波でできているのですけれどまた重ね合わせ状態で、ただし重なり方が違うと考えます。それでミューニュートリノがこんなふうに2種類の波の重ね合わせで、それに対してタウニュートリノは、ずれたような重ね合わせで、これによってこの2種類のニュートリノの違いができてくるのだというふうな考え方をします。ところが問題は、質量Aと質量Bで違う重さを持っているので、伝わっていく間に違う速さで空間を伝わってきます。そうすると波の重ね合わせなのにAの波とBの波というのが青と赤で段々異なる速さで伝わってきます。しばらく走るとこうなる。どんどんニュートリノは勝手に走らせていくと波の重なり具合がずれてしまう。そうするとミューニュートリノが段々ずれていった先に現れた様子を元のものと比べると違うニュートリノに変わってしまうということがおきます。これがニュートリノ振動というものです。要するに2つの波の重ね合わせなのですけれど、ほんの僅かに質量が違うために段々走っていく間に波のうねりというようになってある時には、元々ミューニュートリノのだったのが消えてタウニュートリノになる、それからしばらくするとまたミューニュートリノに戻るというように、波の干渉を起こしている。これがニュートリノ振動と呼ばれる現象で、ニュートリノ振動が起こるためにはニュートリノに質量がなければいけない、しかもバラバラの質量を持っていないといけないということです。どのくらい走る間にどのくらい振動するかというのは、ニュートリノの持っているエネルギーと、2つの質量の差で決まるといわれています。ではもともと太陽ニュートリノや大気ニュートリノの観測でニュートリノが減っているように観測されたのは何故かということに戻ると、最初に申し上げましたように電子ニュートリノというのは電子に変わります、それに対してミューニュートリノはミュー粒子にタウニュートリノはタウ粒子に変化しますけれど、こっちのできてくるミュー粒子、タウ粒子というのは結構重いです。ニュートリノに比べると。特に電子は軽いのですけれど、ミュー粒子というのは電子の200倍の重さがあり、タウ粒子に至っては電子の2,000倍の重さを持っています。そうするとエネルギー保存の法則というのは高校の物理でやって絶対の法則というように教えられているのですけれどこれはもう絶対の法則でこういう重いものを作るのに必要なエネルギーを最初に持っていないとこういう反応を起こすことができない。勝手に重いものを作ることができない、ですので電子ニュートリノの時に持っていたエネルギーで電子を作ることができたとしても、それがもしミューニュートリノになってしまうとミュー粒子というのが重すぎてこういう反応を起こすことができなくなってしまう。ですので太陽でできた電子ニュートリノというのがもしそのまま電子ニュートリノというのがやってきていれば、物質の中で反応して電子を作ることができていたのですけれど、それがもしミューニュートリノやタウニュートリノになってしまうとこういう反応の後の粒子が重すぎてそういう反応を起こすことができない。そうすると検出器で一生懸命数えても結局ニュートリノが減ってしまったようにそういうふうに観測される。これが減ってしまったように見える理由です。今のは2種類の波で説明したのですけれど実際にはニュートリノは3種類あるので、3種類の質量の波がいろいろな強さ、それから波の位相というもので混じっていると考えられます。そうすると今までそれまでに見つかった太陽ニュートリノで発見されたニュートリノ振動、それから大気ニュートリノで発見された振動にもう一つ別のミューニュートリノが電子ニュートリノに変わるというそういう振動があるはずだということが予想されていました。それで私が今従事しているT2K実験というものが出てくるのですけれど、これのそもそもの目標というのがミューオンニュートリノを人工的に作ってそれが電子ニュートリノに変化するのを探そう。それで波がずれていくのには非常に長い距離が必要です。どれくらい長い距離が必要かというと何100キロという距離が必要です。ですので日本の端の茨城県の東海村というところで加速器というものを用いてニュートリノ作ってそれを地球の中を通してここのスーパーカミオカンデで観測するというそういう実験です。ニュートリノにとっては地球の中もスカスカなので、関係なく地球の中を突き抜けてスーパーカミオカンデの中に行く。それでスーパーカミオカンデに行ったニュートリノのうちごく僅かが反応する、それを検出しましょうということです。T2K実験というのは今500人くらいいて、11カ国からなる国際共同実験です。この中に国際共同実験なので女性の方はいっぱいいるのですが、日本人で女性というと1人か2人、先ほどとあまり状況が変わっていないということです(笑)。理論屋さんだともうちょっと増えていると思うのですけれど、実験屋はまだまだ少ない。私も(この写真の中の)どこかこの辺にいます。この写真が東海村にあるJ—PARC加速器というもので平成21(2009)年に作られています。海辺の加速器で陽子を高いエネルギーに加速してニュートリノを作り出すというそういう装置です。ミューニュートリノビームというのをどうやって作るかというのが今回受賞した時に評価していただいたものなので、ちょっと詳しくお話しようと思うのですが、陽子というものは、先ほどのは陽子を加速する装置ですが、それをある物質の塊にぶつけます。具体的には今炭素を使っています。鉛筆の芯の大きいものみたいなものです。そこにぶつけるといろいろな粒子が発生するのですけれど、強い相互作用というのを通してですが、その中にクォーク2個でてきたパイ粒子というものがあります。湯川先生が予言した粒子なんですけれど、このパイ粒子というのがまたちょっと奇妙で、安定ではないのですね。しばらくすると数10メートル飛んでいる間に勝手に壊れてしまう。壊れた後に出てくるのが反ミュー粒子とそれからミューニュートリノというものです。このミューニュートリノを使ってやろうという、そういう実験です。この陽子を原子核にぶつけてそこから出てくるパイ粒子が壊れてニュートリノになるけれど、そのままだとニュートリノは四方八方に飛び散ってしまってなかなか実験できないということで、作ったのが電磁ホーンと呼ばれる装置です。この装置自体はヨーロッパで発明されたものなのですけれど、この日本の実験にあわせて作り直しました。これは、ジュースの缶のような金属のアルミの筒が2本あるのですが、そこに電流をドーンと内側を通して外側で返すというふうにして、250キロアンペアという電流を瞬間的に流します。普通の電流というのはコンセントを流れているのは1アンペアくらいなのでそれの250キロ倍というのを流します。ものすごい電流です。そうすると高校の物理でやったのですけれど、磁場が発生します。電磁気の法則で。磁場が発生したところにパイ粒子が飛ぶと、パイ粒子は電荷を持っているのでローレンツ力という、左手の法則でしたか、ローレンツ力というのを感じて曲がります。それによって、出てきたパイ粒子が四方八方に飛び散らずにまっすぐに前に行くように収束させるというそういう装置です。その後ニュートリノとして崩壊するのですけれど、パイ粒子を真っ直ぐにしておけばニュートリノもわりと真っ直ぐに行くのでスーパーカミオカンデに向けてこうぎゅっとたくさん収束させることができます。この写真は作った電磁ホーンの中の1つで1番大きいものです。250キロアンペア流そうと思うとそれなりにゴツイものにならなければいけないというものです。これが現場に実際に入れた3台の電磁ホーンです。反対側を見るとトンネルがあって、これは100メートルのトンネルなのですけれど高さが6メートル位で、この中をパイ粒子が走って行く間に壊れてニュートリノになるという装置になっています。これを作ったのが平成12(2000)年から設計して平成19(2007)年位に設置してという、この当時は毎日ほとんどヘルメットと作業着で這いつくばって、この辺をずっとうろうろしているという生活をしていました。こうやってニュートリノを作った後、反対側のスーパーカミオカンデで反応するのですけれど、このJ-PARCと呼ばれる加速器からは大体1平方センチ当たり毎秒1個のニュートリノを飛ばすことができます。250キロから300キロ先でこれだけ飛ばすことができるので大したものだと思うのですけれど、そのうちニュートリノがスーパーカミオカンデの水の中で反応してくれるのは約100億分の1です。さっき言ったように本当に稀にしか反応していないです。このスーパーカミオカンデ検出器の優れたところは、電子とミュー粒子を区別することができる。出てきた電子とミュー粒子というのが水の中で光より速く飛ぶのですね、水の中というのは真空中の光のスピードよりも屈折率分遅いので出てきた電気を持った粒子というのは光より速く進む、そうすると衝撃波が出るのです。平たく言ってしまうと飛行機が音速を超えたときに衝撃波が出るように衝撃波が出る。この場合には光が衝撃波として出る。その衝撃波の出方というのを観測するのです。電子というのは非常に軽いので水の中を走っていく間にカンカンカンと蹴飛ばされて行く、そうするとミュー粒子だときれいだった衝撃波の形が電子だとボワーっとぼやけてしまう。これによって出てきた粒子がミュー粒子なのか電子なのかを区別することができるというとても優れた検出器です。それで平成21(2009)年に実験が始まってデータを取り、地震で1年間止まったりとか紆余曲折があったのですけれど 平成25(2013)年7月にミューニュートリノがそのうち約5パーセントが電子ニュートリノに変わっているという現象を発見、報告しました。このT2K実験が。この図で横軸がエネルギーの分布なのですけれど、電子ニュートリノを集めた、もし変化していなかったら予想値はここなんですけれどそれに対してこれだけたくさんデータが出てきたということで発見をした。実際には平成23(2011)年に6個くらい出てきて、この時点で28個なんですけれど、 平成23(2011)年に6個くらい出てきたときにはまだ発表前なのですがみんなで「これはあるぞあるぞと」いう非常に楽しい、まだずっと見つかっていなかったそういう振動がやはりちゃんとあるんだということが分かりました。一応この分野では大きな発見だということでいろいろなところで紹介していただきました。未発見のニュートリノ振動を見つけたと。次の課題は、もう実験しなくていいのかというとそうではなくて、これは別に見つけたいから見つけただけではないのですね。実はあるはずの物だから見つけてたという以上の意味があって、実はこのミューニュートリノから電子ニュートリノへの振動というのは別の意味があってその後に続く可能性を持っています。これを今ニュートリノでやったのですけれど後で説明する反ニュートリノというものでやると実はもしかすると一緒ではないかもしれない、そういう予想があるのです。これは物質反物質の対称性の破れと呼ばれるものです。これがやりたくてこの振動をみんな一生懸命探していてそれをT2K実験が見つけたのです。これはどういうことかといいますと昭和6(1931)年に既にディラックという有名な偉い先生が、実は全ての粒子・素粒子には、素粒子に限らず粒子には、反粒子が存在するということを予言しました。粒子が波だという話をしたのですけれど、ディラック先生が方程式をいじくると時間を反対にしても粒子として存在するのではないかというような、ちょっとSFみたいなことを言い出したわけです。そうするとその粒子の性質として同じ重さを持つのだけれど反対の電荷を持つということを予言しました。これだけだとSFの世界なのですけれど、実際にはもう1年後に本当に電子の相棒の反電子というものが存在することが発見されました。今では全てのクォークやレプトンというのは反粒子が存在するということが分かっています。とても不思議です。でもこの理論によれば当たり前なのです。こういう粒子が存在するということは当たり前なのです。ですが反粒子というのは身の回りにないですよね。高校で習うのは必ず電子です。反電子などというのはちょっとオタクな先生くらいしか教えてくれない。身の回りには陽子はあるのだけれど反陽子は無いのです。なぜ身の回りには反物質がないのか、これは実は非常に謎なのです。何故かというとディラック先生の予言した反粒子というのは粒子と全く同じ性質を持っていて、エネルギーを与えれば作ることができるのですけれど、その時には必ず同じ数だけの粒子と反粒子が作られなければいけないという理論なのです。ですので宇宙の始まりに何もなかったところからクォークや反クォーク、レプトンや反レプトンができたとしたら宇宙には同じ数だけの物質と反物質が存在しないといけない。ところが今現在138億年後のわれわれの身の回りには物質しか見当たらないということがあるのです。宇宙の遠くを探してもどうも反粒子があるという痕跡は全くない。このような宇宙を作るには物質と反物質が異なる性質を持たなければいけないということが分かっています。物質反物質の間の対称性が破れているという必要があって、それをCP対称性といいます。今日はおまじないだと思って聞いてください。CP対称性と呼びます。破れているというのは誰もそんな事はないだろうと思っていたのですけれど、実は昭和35(1960)年代に実験でそういう破れがクォークを使って見つかりました。そのクォークのCP対称性の破れを理論で説明したのが小林・益川先生で、それでノーベル賞をとられた。それで解決したかというとそうではなくて小林・益川の理論で宇宙に存在している物質の量が説明できるかというと10桁合わないという問題があります。このCP対称性の破れだけでは足りなくて、もし小林・益川理論だけだとすると人類は10桁分の1しか生き残ることができない。もっと消えてしまっているわけです。こんなに物質があったらおかしい。それで今その謎を解く鍵はニュートリノの方にあるかもしれないという理論が出ていてニュートリノでCP対称性を破るというのが次の課題というふうになっています。ニュートリノで物質反物質対称性の破れを測るためにはニュートリノの場合と反ニュートリノの場合でニュートリノ振動の変化を比べるという事をやれば測ることができる。T2K実験というのはミューオンニュートリノから電子ニュートリノの変化を発見しました。ですので一つの方法は加速器を用いて反ミューオンニュートリノを作って反電子ニュートリノへの変化を測定して割合を比べるということです。もう一つの方法はCP対称性が物質反物質の対称性が破れていない場合の予測値というのがあるのでそれと今回の結果というのをもうちょっと精度を上げて比べるという、そういう二つの方法があります。この反ニュートリノの測定というのはこれからやろうとしていてまだできていないのですけれど、2番目の方法は既に始まっていてこのT2K実験ではこれまでに電子ニュートリノ候補を28個見つけました。CP対称性が破れていない場合の予測値というのは多くて22個です。CP対称性が、ある理論に基づいて最大限に破れている場合の予測値というのは26個なので最大限に破れている場合に近いような数字が得られているということです。でもこれはじゃんけんと一緒で統計的にどうしても揺らぎます。たまたま良い時にたくさん出たのかもしれない。ですから破れていそうな気がするのだけれどもまだまだデータ量が不十分で破れているというふうには言えない。言えないのだけれど破れていそうな感じがするというので今非常に面白い時期になっていると思います。T2K実験というのはこれから数年かけて今の10倍の実験データを蓄める予定なのでもしかすると実験を続けることによってニュートリノにおいてCP対称性の破れが見えるかもしれないと思っています。さらにその先には、10倍になっても280個なのでもっと欲しいと、研究者はどうしても思ってしまうということでスーパーカミオカンデの20倍の大きさのハイパーカミオカンデ計画というのも進行中です。
これで最後のまとめなのですけれども、まとめの一言としてということで、日本というのはニュートリノ振動の研究で、小柴さんによって始められたカミオカンデという検出器で始まっているのですけれどニュートリノ振動の研究で30年間ずっと世界をリードしてきています。その間に最初は、そんなニュートリノ振動なんてあるのか、単に測り間違いなのではないかというふうに言われてきたのですけれどこの30年間にニュートリノ振動の全貌というのがほぼ見え始めました。振動自体は3つあるはずの振動全部が分かった。そして今その集大成ともいえる課題というのがニュートリノにおけるCP対称性の破れ、物質反物質の破れの探索です。今はその発見の前夜かもしれないということでみんなこうワクワクしながら皆、実験をやっているところです。今後もぜひ応援したいいただいてこの実験をやっていければなあと思います。
ここで最後に今回の受賞に関しては、所属している京都大学それからJ-PARCでみんなで一緒に研究している人たち、加速器や施設の人とか研究所の事務の人、そしてスーパーカミオカンデを持っている東京大学宇宙線研究所、そういう多くの皆様そして家族に感謝したいと思います。私は娘がいるのですけれど、今日も家にいて、昨日も一昨日もその前も今日の晩もお父さんが晩御飯を作ってくれています。あとT2K実験というのは500名の共同実験で日本だけでも100名近くの研究者が参加していて私はこの中のリーダーでもなんでもなくてコアの中心では働いていると思うのですけれど決してリーダーでもなんでもないのです。なのでその感謝の中に実は共同研究者の人を入れるつもりはなくて、なぜかというと別に抜きん出ているわけではないので今回は共同研究者の仲間への感謝というよりは、共同受賞だとそういうふうに思っています。女性だということで希少価値ということで賞をもらえてしまったのですけれど、実際にはみんなでやっている実験です。そのうちこれからどんどん時間が経っていくと女性だからといって賞をもらえるというような時代が終わって、この湯浅年子賞というのも女性に限らず男性にも門戸を開いて、その時にもう一度いただけたらと思っています。本日はありがとうございました。

司会:市川さんありがとうございました。何か質問等ございますでしょうか。

質問者:ニュートリノの振動をやったということでしたが、反ニュートリノの振動というのはまだでないのでしょうか。

市川氏:地球は物質でできていますね。ニュートリノの物質との反応のしやすさと反ニュートリノの反物質との反応のしやすさというのはほとんど一緒なのですが、反ニュートリノと物質の反応のしやすさは3分の1くらいになってしまうのです。

質問者:物質効果が効いているということですか。

市川氏:そうですね。検出器が物質でしか作れないので、反ニュートリノは難しい。
だけれど、これからおもしろいところになったので、多分平成25年(2013)年からニュートリノの測定をし始めると思います。

司会:それではもう一度新しい結果を出してもらって、もう一回賞を受賞してもらいましょう。2回受賞するのを禁止する規則には作っていなかったと思います。どうもありがとうございました。

ではこれでお茶の水女子大賞、第1回湯浅年子賞の授賞式および受賞者による講演会を終了させていただきます。

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お茶の水女子大学 企画戦略課 (男女共同参画推進担当)
〒112-8610 東京都文京区大塚2-1-1
E-mail: danjo@cc.ocha.ac.jp

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