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全学教育システム改革推進本部

《文学史》を教えること

浅田 徹(人間文化創成科学研究科研究院基幹部門 文化科学系 准教授)

 今回選ばれた私の授業は、「日本古典文学史論(中世)」という。日本語日本文学コースでは日本文学史を六つの時代に分け、全時代の講義を履修しないと卒業できない仕組みだ。私はその中の中世(=鎌倉・室町時代)を担当している。
 《文学史》というと、高校古文の副教材に付いていた年表のようなものを想起されるだろうか。あれを覚えるのはもちろん良いことだが、それが文学史の勉強だとは私は思わない。文学史に限らず、歴史を学ぶとは、「現在とは違う世界があった」ことを知ることだと思うのだ。逆に、歴史を学ばないことは、現在の世界を自明で当然のものと考えることにつながる。それはよくない。

 現在の世界は、世界が常に変化してきた結果であり、そうであるからにはこれからも常に変化し続けていくものである。私の授業では、現在の文学観からすると異様に見えるものを選んで取り上げることに主眼を置いている。異様で奇妙に見えるジャンルがかつては確かに存在したという事実が、我々の文学を相対化してくれるからだ。

 「文学は個人の思想を表現したものである」と定義すると、たちまち「連歌」という文芸が理解できなくなる。「自分の感じたことを、自分の言葉で表現しましょう」というスローガンは、「本歌取り」を根本とする中世和歌の世界には通用しない。文学は、何かもっと違ったものでありうるのだ。

 「能」では、シテやワキが舞台上にいるのに、彼らのセリフはいつのまにか地謡(合唱隊)に奪われてしまい、彼らは口をつぐだまま演技していたりする。そういう実例に触れることで、「そもそも〈役者〉って何なのか? 〈セリフ〉って何なのか?」と我々自身の演劇観を批判的に問い直すことができれば、《文学史》の授業は効果を挙げたことになる。

 《文学史》は、体系的であってはならない。体系は、それを構成する諸事項の間にある断絶を覆い隠してしまう。断絶こそが歴史を語る意味の源だというのに。

 また、《文学史》は出来上がった何かの織物として存在するのではなく、むしろ何かに触れるたびごとに生起する啓示のようなものだ。それは順序立てて組み上げていくことができない。組み上げれば啓示は死んでしまう。

 諸大学のFDでは、「授業が、体系的なヴィジョンに基づいて、所期の目標を達成できるように構築されているか」どうかを評価の基準として要求する。第一回から第十五回まで、順序を追って学生をトレーニングし、最後に所期の目標が達成される―例えば、逆上がりができるようになるとか―ことが理想なのだろう。

 私は授業を体系化するのが大嫌いだ。シラバスには授業の順序も、やることの「全体像」も示したくない。その結果だろうか、私の授業の学生アンケートでは、「達成度」が特に高くはないのに、「満足度」がそれより高いのが通例である。「達成」とは何のことかよくわからないが、何かの刺激を受けて面白かった―私の望む評価は、まさにそのようなものであり、その意味でアンケート結果には大変満足している。

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